赤野観音堂(その1)
樹木観察が先になってしまいましたが、この記事では赤野観音堂について調べてみました。ちょっと見難い写真ばかりで恐縮です。こういう場所が上手に撮れるデジカメがあると良いのですが・・。
境内には、前記事のナギやカヤを始めいろいろな巨木が植えられています。
頭上に垂れ下がるのは、カヤの枝で、沢山のおみくじが結ばれています。
歴史を感じさせてくれる古い佇まいが良いですね。
脇の入り口から見た観音堂。
右手前にある鐘つき堂。
観音堂の左手前にある祠。樹木に日を遮られ、薄暗い所にあります。
これは?観音堂の右手にあり、位置からすると薬師さんかな?
「観音さんは、どうなった?」お堂の中の本尊さんは、見る事が出来ませんでしたが、次の記事では、裏にある観音様の石像を載せてみます。
【赤野観音堂】
この観音堂は、沼津では数少ない江戸中期の建築様式を示す建造物である。木造・茅葺・寄棟造りの平屋建てで、内陣は唐様式の鏡天井であり、天井には龍、正面の壁面には天女の舞う姿が描かれている。外陣、外廻り軒裏は化粧天井になっている。屋根の葺替を除き、創建時そのままなのでかなり老朽化し、極彩色の絵画も薄れているが、よくまとまった堂である。
このあたりの地名を阿気野といい、もとは阿気大神が祭られていたと伝えられる。「文徳実録」には、仁寿の頃(六世紀末頃)、伊豆国から駿河群に神を移し、阿気大神と名づけたと書かれている。この神社は現存していないが、その本地と考えられる寺院の観音堂だけが残っており、現在は柳沢の真言宗広大寺が管理している。
本尊は、十一世紀頃の製作とされる十一面観音(市指定有形文化財)であり、観音信仰による駿河一国三十番札所、駿河・伊豆両国横十五番札所として知られている。
この観音堂は、寛永十四年(一六三七)名匠左甚五郎が、ワラ人形の霊神の加護により、三日三晩目の夜明けに完成したという俗説もあり、郷土の人々に興味深く伝承されている。
昭和五十六年一二月一日 沼津市教育委員会
(新しい由緒書きもありましたが、木製の古い方を転用させていただきました)。
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